2011年06月22日
義理と人情の国際協力
先日は杉浦顧問と久しぶりに同行し、
岡崎の会員さんをまわりました。
オイスカ愛知県支部は現在13の推進協議会、
6つの議連、そして中継連加盟企業で構成される
中部日本後援会とオイスカ支援組織が充実しているが、
センター開所時は当然そんな後援組織はなかったのである。
センターが愛知県岡崎市で産声をあげたのが
昭和42年9月。
マレーシアから工業研修生を数名受け入れ、
研修がスタートした。
当時インド開発から帰国した杉浦顧問はセンターの食堂の
お母さんたちの「声」を聞く。
「研修生に食べさせるお米がない・・・」
ないないづくしの草創期。
当時の職員の手当は「ゼロ」。
無給であった。
「会員をつくって、研修生を養うしかない」
杉浦顧問の執念の新規開拓がはじまった。
当時は全部飛び込み訪問。
杉浦顧問のインド開発の話に、
当時の経営者は惹かれ、乗せられ、
一人ひとりと会員が増えていく。
杉浦顧問の夢とロマンに当時の会員さんは
会費に夢を託し、浄財をオイスカに預けていった。
杉浦顧問はじめ、当時の熱烈なるオイスカマンの汗と努力で
今のオイスカ中部がある。
義理と人情の国際協力。
それに加えて「恩」と「感謝」。
センターはこの4つをもって、
今年を乗り切ります。
岡崎の会員さんをまわりました。
オイスカ愛知県支部は現在13の推進協議会、
6つの議連、そして中継連加盟企業で構成される
中部日本後援会とオイスカ支援組織が充実しているが、
センター開所時は当然そんな後援組織はなかったのである。
センターが愛知県岡崎市で産声をあげたのが
昭和42年9月。
マレーシアから工業研修生を数名受け入れ、
研修がスタートした。
当時インド開発から帰国した杉浦顧問はセンターの食堂の
お母さんたちの「声」を聞く。
「研修生に食べさせるお米がない・・・」
ないないづくしの草創期。
当時の職員の手当は「ゼロ」。
無給であった。
「会員をつくって、研修生を養うしかない」
杉浦顧問の執念の新規開拓がはじまった。
当時は全部飛び込み訪問。
杉浦顧問のインド開発の話に、
当時の経営者は惹かれ、乗せられ、
一人ひとりと会員が増えていく。
杉浦顧問の夢とロマンに当時の会員さんは
会費に夢を託し、浄財をオイスカに預けていった。
杉浦顧問はじめ、当時の熱烈なるオイスカマンの汗と努力で
今のオイスカ中部がある。
義理と人情の国際協力。
それに加えて「恩」と「感謝」。
センターはこの4つをもって、
今年を乗り切ります。
Posted by 中部こすぎ at 21:09│コメントをする・見る(0)
│オイスカ